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on the way

サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る

PLAYER'S BIOGRAPHY

栗澤僚一

一度は阻まれたレイソルの門
小さな身体でいかにサッカー界に生き残っていくか
習志野高校、流通経済大学、そしてFC東京と
常に自らのプレースタイルを模索し、自分の力を高めてきた
そしていまや代わりのいないレイソル不動のボランチに

TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司

ROUTE 08

Chapter01:セレクション落選

 「小6の時にレイソルのセレクションを受けて落ちたんですよ」
 話が小学校高学年の頃に及ぶと、さらりとした口ぶりでそう語った。
 生まれも育ちも千葉県。しかもレイソルのホームタウンである松戸市の出身であり、小学1年からは柏イーグルスでボールを蹴り続けていた。周囲の誰よりも足元の技術に長けていた少年・栗澤僚一がレイソルの門戸を叩くのは自然の成り行きだった。
 今でこそレイソルの中心選手として不可欠な存在となった栗澤も、スムーズにプロサッカー選手へと登り詰めたわけではない。本人の言葉にもあるように、レイソルジュニアユースのセレクション落選をはじめ、数多の挫折や落選を味わい、その都度這い上がってきた道のりがある。
栗澤が入学した新松戸北中はごく一般の公立中学だった。サッカー部もとりわけ強豪と呼べるほどの成績を残しているわけでもなかったが、栗澤の実力、特に足元の技術はチーム内で突出しており、松戸市サッカー協会、千葉県サッカー協会のスタッフの目に留まった。千葉県選抜に何度か選出されては合宿やトレーニングに参加。中学3年になると、県内の高校サッカー名門校から誘いの声がかかった。
「専修大松戸、東海大浦安からも話はありましたけど、市立船橋か習志野に絞って、どっちが自分に合っているかと考えて習志野を選びました」

Chapter02:千葉の名門へ

 テクニックを重んじ、攻撃サッカーを貫く習志野高は、過去に全国制覇の経験があり、千葉県では市立船橋高と双璧をなす名門だ。1998年の入学当時、栗澤の2学年上には玉田圭司(現名古屋)、吉野智行(現鳥取)、関隆倫(現FC琉球)、1学年上に本間勲(現新潟)、2000年から02年までレイソルでプレーした町田忠道など、後にプロサッカー選手の道を歩む錚々たる顔ぶれを揃えていた。
「習志野は技術系の練習が多かったです。ドリブルとかリフティングとか」
 そう回顧する高校時代。多くの実力者の中で揉まれたことが大きく影響したのか、栗澤の技術レベルはさらに磨かれ、秋の千葉県予選はまったく未経験ながら、1年生にして高校選手権本大会のメンバーにエントリーされた。
 夏のインターハイは3位。千葉県大会決勝で市立船橋を下して全国へ勝ち名乗りを上げた習志野は、国見高と並ぶ『優勝候補筆頭』と評された。しかし1回戦で鹿児島工高に1-3で敗れ、まさかの初戦敗戦。栗澤は後半途中から出場したが、その時のわずかな出場機会が、結局は高校3年間を通じての唯一の選手権となった。
 栗澤は「高校時代は良い思い出ないですよ」と述懐した。高校2年以降は習志野でレギュラーを張ったが、全国大会とは無縁だった。市立船橋との対戦はおろか、伏兵に行く手を遮られた。
「習志野はここ一番という時に弱かったんです。そこが市船との違いでした。2年の時の選手権なんて、県大会で市立松戸に負けましたから。それが習志野らしいんですよ(笑)。一番成績が良かったといえば高3年の時の県大会。(田中マルクス)闘莉王(現名古屋/当時渋谷幕張高)のわけわかんないフリーキックにやられた時です」

Chapter03:大学で花開く

 全国のひのき舞台にも上がれず、進学に関しても第1志望校に挙げていた順天堂大のセレクションに通らなかった。そこで栗澤は、習志野サッカー部監督の本田裕一郎氏(現流通経済大柏監督)に進路相談を持ちかけた。すると本田から紹介されたのはサッカー界では無名の大学、流通経済大だった。
茨城県龍ヶ崎市にキャンパスを置く同大学は、関東大学リーグの下の都県リーグに属していた。もちろんプロ選手の輩出もなく、栗澤が当初入学を望んでいたサッカー強豪大学とはあまりにもかけ離れていた。
「(最寄り駅の)佐貫ってどこって感じでした(笑)。でも中野(雄一)監督に会って話を聞いたら、綿密に強化のプランを立てていたので入学することにしたんです」
 まだ当時は無名に等しかった流通経済大だったが、90年代後半から大規模なチーム強化に乗り出しており、都県リーグでプレーしていたとはいえ、将来有望な選手たちを揃えていきながら年々成績は上昇傾向にあった。栗澤の先輩に阿部吉朗(現湘南)、塩田仁史(現FC東京)、そして同期には杉本恵太(現名古屋)がいた。
 2001年、栗澤らの世代が加わり、チーム力がさらに向上した流通経済大は、北関東大会で優勝し、翌年からの関東大学リーグ2部への昇格を決めた。
「大学に入ってからですよ」
 彼自身が語るように、チームの躍進とともに栗澤は全国にその名を轟かせ、メキメキと頭角を現していくことになる。

Chapter04:先輩の後を追って

 大学時代の栗澤に、多大な刺激と影響を与えたのが、2学年上の先輩・阿部吉朗(現湘南)の存在である。
 流通経済大が関東大学リーグの2部に上がった2002年、阿部はエースとしてチームを牽引しただけでなく、デンソーカップでは全日本大学選抜にも選ばれ、2得点を上げてMVPに輝いた。後に阿部はFC東京の特別指定選手となり、大学在学中にFC東京の選手として天皇杯にも出場。身近にいた先輩がJのクラブでプレーする姿を見て、栗澤もプロの道を意識し始めた。
 また、栗澤の大学でのキャリアは、流通経済大の躍進の歴史でもある。
「俺らの代以外で、こんな経験した奴は絶対にいないと思いますよ」
 栗澤は力の籠った言葉の後に、その理由を語り始めていく。
 1年時の2001年に都県リーグからの昇格を果たし、3年時には関東大学リーグ2部で優勝を成し遂げ、2004年には1部リーグに辿りついた。ただ、「絶対にいない」とまで断言するのはそれだけが理由ではない。
 流通経済大は『クラブ・ドラゴンズ』との名称で社会人リーグにも属しており、茨城県社会人リーグ2部を皮切りに年々昇格を続け、栗澤が大学4年となった2004年には全国地域リーグ決勝大会まで勝ち進み、最終的に翌年からのJFL参入を手にした。栗澤世代は、大学と社会人の双方において、下部ディビジョンからトップリーグまでを知るというわけである。
 今でこそ全国的な強豪大学としてその名を轟かせる流通経済大も、当時は環境や設備に恵まれておらず、下部ディビジョンはグラウンド状態なども良好ではない。下から這い上がっていく過程は生易しいものではなかったが、都県リーグから大学リーグ1部、県社会人リーグからJFLへ登り詰めた経験は大きな成長を促した。
「そういう環境でやってきたからメンタル的なところも成長できた。あとは中野(雄二)監督からは戦術的なこともたくさん言われたので、守備の楽しさというか、そういうものもわかってきました。自分は体が大きくないし、考えてポジションを取らないとボールは奪えない。ボールを持っていない時にどう動くか。そういうのがわかってきたのが大学時代でした」

Chapter05:プロへの道を拓く

 大学で戦術面、守備面、メンタル面が備わった栗澤が頭角を現すのは必然の流れだった。関東大学選抜、全日本大学選抜を経て、大学4年時の2004年にはFC東京の特別指定選手となった。
 そのプロのステージで、栗澤にレベルの高さを痛感させた者がいる。栗澤と同年代で、04年にコンサドーレ札幌からFC東京へ移籍してきた今野泰幸だ。
「あいつのボールを獲る能力には本当に衝撃を受けましたね」
 幼少の頃から習志野高時代までに培ったテクニックとインスピレーション。中野監督から受けた指導、FC東京での今野との邂逅。栗澤のサッカー選手としてのベースが、ついに出来上がろうとしていた。
 栗澤の能力を高く評価していた原博実監督(現日本サッカー協会技術委員)は、開幕早々に出場のチャンスを与えた。2004年J1ファーストステージ第3節、東京ヴェルディとのダービーマッチがデビュー戦の舞台だった。
 同じ流通経済大の特別指定選手、塩田仁史とともにベンチ入りを果たした栗澤は、後半25分に戸田光洋との交代でピッチへ上がった。するとその1分後にジャーン(現湘南)のゴールで2-2の同点に追い付き、後半35分に栗澤のパスから馬場憂太の決勝ゴールが生まれ、デビュー戦にしてアシストを記録。いきなり存在感を知らしめた。
 特別指定選手にしてリーグ戦6試合、ナビスコカップ3試合に出場。2005年から正式加入となった後は、FC東京の中心選手として活躍し、特に05年はルーキーイヤーながらリーグ戦全34試合に出場するなど、原監督から重宝された。

Chapter06:不遇の時代

 そんな活躍も手伝い、三浦文丈から「俺の引退後はクリに継いでほしい」と次期10番の継承を提案されたというが、それに関して問うと「継がなくてよかったですよ。その後はあまり試合に出てませんから(笑)」と自虐的に2006年以降の苦しい次期を語る。
 毎年のように見舞われた監督交代も、栗澤にとって不運な出来事のひとつだろう。その都度戦術が変わり、信頼を勝ち取らなければならなかったからだ。05年から08年に至るまでに、原、ガーロ、倉又寿雄(現FC東京U-18監督)、そして再び原と替わり、2008年からは城福浩監督が就任した。
 メンバー外が増え、ナビスコカップですら出場機会が与えられない。シーズンが進むにつれ、いつしか栗澤には「出場できるクラブへ移籍したい」という気持ちが起こり始めていた。

Chapter07:試合に出たい

 2008年、FC東京ではチャンスに恵まれていなかったが、栗澤自身は好調を維持していた。だからこそ、なおさら出場機会を求めた。「試合に出られるクラブに行きたい」との考えを代理人に話し、移籍先を探してもらった。
新天地を見つけ出すのに、そう時間はかからなかった。レイソルが栗澤の獲得に動き出したのだ。
実は今から3年ほど前、当時レイソルを率いていた石崎信弘監督(現札幌監督)は、練習終了後の囲み取材等で、事あるごとにこう話していた。
「清水の杉山浩太とFC東京の栗澤僚一は良い選手。ウチに来てほしいね」
 時にはブラジル代表のカカーの名前を出し、「欲しいというだけならタダじゃから」と冗談を飛ばしていた石崎監督であったが、杉山と栗澤を欲しがる言葉は、あながち冗談とは思えなかった。実際に、2008年のシーズン前の補強では杉山が加わっていた。
栗澤は代理人から、石崎監督から高い評価を受けていることを聞かされた。つまりそれは、望んでいた出場機会を得られる可能性が高いことを意味している。しかも自分の出身地・松戸はレイソルのホームタウンでもある。栗澤はオファーを受けた時の心境を語る。
「イシさんのサッカーもレイソルがどんなサッカーをするのかもわかっていたので、『いいんじゃないかな』と思いましたし、チャレンジしたいという決心はもう持っていたので迷いはなかったですね」
即決で移籍を決断した。こうして2008年8月26日、FC東京からレイソルへの期限付き移籍が発表された。

Chapter08:石崎監督との出会い

 レイソルに加わっての第一印象は「練習がとにかくハードだった」ということらしい。真夏のうだるような暑さの中で栗澤は石崎監督の施すハードなメニューを黙々とこなした。
「加わったばかりの頃は本当にきつかったですよ。キャンプでもないのに、これじゃ疲れて試合できないよとも思いました(笑)。でもやらなきゃいけないですし、やっていると意外とできちゃうもんなんです。そのキツさは今につながっています」
 石崎監督は栗澤をボランチで起用した。それまでもポジショニングやボールを獲り切る力の必要性は十分理解していたが、FC東京ではサイドハーフなど比較的攻撃的なポジションでの起用が多かったため、ポジションの特性上、まずは自分が第一ディフェンダーとしてプレッシャーに行くことが求められていた。それがレイソルでは中盤の底でボールを奪わなければならない。栗澤は持ち前の進境力の高さを発揮し、見事に順応した。
「イシさんはフォーメーション練習よりも3対3、4対4、ラインゲームといった対人練習を重点にやっていたし、イシさんのサッカーはプレッシャーをかけることも必要なので、東京にいた時よりは体を動かす部分に関しては全然できるようになりました。今考えると、相手に体を入れるタイミングもそこで身についたと思います」
 栗澤が石崎監督から指導を受けた期間はわずかに4ヶ月強。だが「もっとやっていたような気がするなぁ」と口にするほど、その時間は濃厚なものだった。

Chapter09:レイソルの中心選手に

 2009年、石崎監督からヘッドコーチを務めていた高橋真一郎監督(現広島ユースダイレクター)に替わった。石崎監督のサッカーをベースに、攻撃面では選手個々の自由な発想を生かしたパスをつなぐ『アクションサッカー』を目指した。
当時、高橋監督は鹿児島キャンプで「栗澤の起用法が鍵」と話していた。構想では、アルセウと杉山がダブルボランチを組むため、キープ力がありハードワークのできる栗澤をトップ下か、あるいはサイドで起用する考えがあることを明かしていた。アルセウの負傷により、それは現実には至らなかったのだが、またレイソルの別の一面が見られた可能性があったことを記しておきたい。
 大谷秀和や杉山の不在時には腕章を託されていたことを訊ねると「ボランチで近くにいるからキャプテンマークを渡されただけですよ」とはぐらかすが、レイソルの中心選手としての地位を、加入から1年も経たずして築き上げたことは疑いようもない事実だった。
 習志野高時代の本田裕一郎監督(現流通経済大柏高監督)、流通経済大時代の中野雄二監督、FC東京で指導を受けた原博実監督(現日本サッカー協会技術委員長)、そして石崎監督と、過去様々な監督と出会い、影響を受け、その都度能力を伸ばしてきた。そういった監督たちの中で、栗澤が
「あのサッカー観には、今までで一番衝撃を受けました」
 と話す人物がいる。2009年7月、レイソルの監督に就任したネルシーニョである。

Chapter10:甘えがあった

 2009年の降格について、栗澤は独自の捉え方で振り返りながら、自分を含めた「チームの甘さ」を厳しく指摘した。 「開幕したばかりの勝ち切れない時に『まだシーズンは長い。何とかなる』というような考えがチーム内にあって必死さが足りなかったと思う。途中から降格のプレッシャーを感じて必死になったけど、じゃあなんで最初からできなかったのかとなりますよね」
 この『Cafe Line』の席上で語ったほぼ同様のコメントを、栗澤は第33節の大宮戦直後のミックスゾーンで報道陣に囲まれた際にも残している。当時、誰よりも冷静に降格を分析し、おそらく誰よりも先にその現実を受け入れていた。だからこそ、その後の完全移籍の決意へつながった。
「形は期限付き移籍でしたけど、ほとんど完全みたいなものでしたし、それに自分にも甘い部分があった。自分が落としたんだから上げるしかないと感じていました。もう1回、一からやるという気でいました」
 そう完全移籍を選択した理由を語った。
 J2での首位快走は、栗澤のみならず選手各々が昨季の戦いから学んだ「1試合1試合大事に戦わなければならない」との気持ちの表れだという。出場機会を得られない選手たちも必死に練習へと取り組み、実際にチームが苦しい時に工藤壮人、林陵平ら、若い選手が登場して、チームに勢いをもたらしたことをチームの変化に挙げ、その機会を逃さないネルシーニョ監督の手腕に対する驚きを栗澤は包み隠さずに話す。

Chapter11:監督からの薫陶

 栗澤はこれまで出会った数多くの指導者から何か学び、自分の糧としてきた。例えば、原博実監督(現日本サッカー協会技術委員)の攻撃に比重を置いたサッカーや、城福浩監督のムービングフットボールを「面白かった」と述べる。
その中でもネルシーニョ監督は特異な存在であるという。2009年こそ残留を果たすために、シンプルかつセーフティーな指示が多かったが、シーズンのスタートからチームを率いる今季は、ネルシーニョ監督独自の哲学とスタイルでチーム作りが進められ、栗澤はそんな異彩を放つ指導から多大な影響を受け始めている。
「日本人監督なら『プレッシャーに行け』と言うところなのに、逆に『行くな』と指示を出したり、相手にボールを持たしてわざとスペースを空けたりする。どちらかというと相手の出方に当てはめる監督が多いのに、ネルシーニョはそういうことをしない。守備の指示は細かいけど、常に攻撃のことを考えているから、ボールを奪った後はうちが効果的に攻めることができる。普通の人じゃできないですよ」
その他、要所でのアドバイスや、チームを締めるべき時の叱咤激励のタイミングの良さ、さらに戦術変更、選手交代といった賽を振ればかなり高い確率で結果へつなげる采配にも感嘆の声を漏らした。

Chapter12:チームを見つめる力

 ただ、それらは高い洞察力を持つ栗澤だからこそ気づく部分は大いにあるのかもしれない。選手という立場でありながら、ピッチの内外においてチームをよく観察する。例えば「自分も東京時代、試合に出られない時期があったから」と、下から這い上がることの難しさを人一倍知る。その経験があるからだろう、工藤、林、北嶋秀朗ら、一時は出場機会を失っていた選手の活躍を促した布部陽功コーチの指導や練習方法にも目を向け、「ヌノさん(布部コーチ)は教え方が上手いですよ」と語る。
若手の話題に及ぶと「あいつは努力していますよね」や「あいつは最近ちょっと体脂肪率が高目かな」といった発言も容易に飛び出す。つまりそれは、チームの細部に渡る状況把握を示している。
ピッチ上では周知の事実だが、的確なリスク管理を見せる中盤のバランサーとしての働き、さらに自ら戦術を体現する他、「ワタル(橋本和)みたいに強く言わなきゃ分からない甘い奴もいますから(笑)」と冗談を交えて話すように、チームメイトの気の抜けたプレーに対する栗澤の激高ぶりは、まさに"ピッチ上の指揮官"との表現がピタリと当てはまるのではないだろうか。
 栗澤はプロに入団したての頃に、すでに『C級ライセンス』を取得しており、将来は指導者の道を歩むことをおぼろげながらに抱き、「将来は指導者を考えています」とハッキリと口にする。もちろん、指導者としての栗澤が見られるのは当分先の話であり、現実的には当然来季の戦いを見据える。
「今の順位にいられるから来季を見据えて戦えている。来年も自分の特徴を出してチャレンジしていきたい。常に全力でやれば次につながるし、失敗しても前向きに考えられる。失敗したら、また次の日も全力でやればいい(笑)」

GOOD MEAL

TODAY'S MENU:「雑穀米御膳」

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『Cafe Line』

  • 柏市末広町2-2
  • TEL:04-7145-7277
  • アクセス:JR、東武野田線「柏駅」西口徒歩1分
  • 営業時間:11:00~22:30(金・土~23:00)
  • 定休日:第3月曜日
  • COMENTS:雑穀米の各種メニュー、ヘルシーカレー、インドカレー、タイカレーなどをお勧めとしてご提供させていただいています。また、アジアンビールやカクテルも多数揃えており、結婚式の二次会としてもご利用されるお客様も多いです。その他、日によってはライブ、ティータイムコンサートも催しております。 いつも柏レイソルを応援しています。来年はJ1で活躍していただいて、レイソルから日本代表選手がたくさん出て活躍してくれることを期待しています。

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